昭和48年02月18日 特別奉修委員



 昨夜の合楽会の人がいつも、久富繁雄さん合楽会には、必ず出席しておられました。皆さんも待っておられたけれども、とうとう見えませんでした。それで今朝からまた奥さんが参ってみえて、こう目まいがするとか何とかと言うてから、自分もまたお参りして、今夜の月次祭には、どうぞお参りが出来るようにと言う事で御座いましたが。この一言抜けると二言抜けると言いますがね。一桁ずつこう抜けていくです。ああ言う所を一つ、所謂元を取っとかにゃというふうに、私はいつも申しますけれども。
 工夫させて貰わなければいけないと思うですね。それは本当と言う事は、あまりにもあれも本当、是も本当なのですけれども。結局様々な信心の生き方というものが、ここで私の信心を頂きながらも、それぞれ違うわけですけれども。一番本当だと言う事は矢張り私が頂いておる信心が、一番本当ここではねじゃなかろうかとこう思う。だからそれに例えば、応えられる信心と言う事でしょうけれども。
 昨日私ここで頂いた事の中に、和楽、神楽、快楽と言う事を頂いた。和の楽この頃秋永のお爺ちゃんが頂いた、和の楽。それから神楽、是は神様を信ずる力から生まれてくる楽。安心ですね、所謂安心の大みかげ。それから快楽というのは、例えば肩がとても凝ってるそれをあの、揉みほぐして貰う時のあの快さというものを、これが快楽とこう言う。お風呂なんかで、はぁ極楽極楽と言う様な快楽とだと思うですよね。
 だからこれは心の喜び正常にして、安穏なりと言う事ですね。そこに和楽、神楽、快楽というものが約束される。心が所謂安穏なというか喜びで、しかも正常で安穏であるというおかげを頂くために、矢張りいつも本当のもっと本当を求めるという心が必要だと言う事ですね。それは例えば、踊りをひとつ見ておりましても、成程お師匠さんについて習った踊りも本当の踊りでしょう。けれども一つの踊りであっても、花柳と又は何々流と、藤間なら藤間というのは、同じ踊りであっても違う訳ですね。
 ですから藤間の人が花柳流を見て、あれは嘘だという訳にはいかんのです。やはりというて、今度は本当の素人が、酔っ払って、我流の踊りを踊ります。ありゃもうしら踊りちゅうこと無かです。もう踊りというものは、みんな誰かが吾よかごつ作ったつですから。けれどもただ問題はその本当の踊りというのは、必ずリズムに合っておると言う事。また姿形が素晴らしいと言う事。
 だからどれが本当、どれでもだから本当です。私方は自己流(じぐら)踊りだから、しらごつちゅうこつはない。もうどれでん言うなら、自己流(じぐら)踊りなんです。わがよかごつ振り付けしたっじゃから。もうこれがほんなごつて決まっとるとは無いとだから。けれどもきちっとリズムに乗って踊れる。しかも乗って決まり決まった所の姿が、形がいいというのが、やはり本当な踊りであって、よい踊りだと言う事になるわけなんです。だから本当の踊り、本当なものって言う事は限りが無いと。
 けれどもせめてリズムにだけは乗っておかなければならない。その決まった都度都度の信心の姿勢というものが、素晴らしい事になっとかにゃいかん。人間ですから。例えば昨日繁雄さんの場合で言うと、今日は早う合楽会じゃけんで、早うお風呂を沸けぇちくれ、早うご飯も食べとこちから、しよなさっとったそうです。所がちっと早過ぎた訳です。だからお風呂から入ってから、休んだら誰でもやっぱ、昼の疲れでもう起きろうごつなかごつなってくる訳なんですからね。
 だからそんなら今朝なら今朝と言う所で、踏ん切りをつけんならん所ですけれども。ああ今日目まいがするけん、お前が参れと言う様なごたる結果になったわけでしょうけれど。やはりそこん所の、例えば決まり決まり、踊りで言うならば、決まっていく所がです。きちっと、さすがにというようなね。例えばそれはおかげではない、反対におかげを落としていく具合でも素晴らしい。
 あの何ていうですか、長唄に茶壷というのがありますよ。是なんかは三味線の合いの手を一つずつ遅らかせて踊るという踊りなんです。間に入らない、一つずつ遅れて、例えば決まって行く事も、足拍子も手拍子も一コマずつ、だから非常に難しい。けれどもそれがまた何とも言えん、軽妙な踊りなんですけれどもね。だから私どもが、折角おかげを頂くなら和楽、神楽、快楽この三つが揃うたね、和らいでおる事によって、本当に人が何と言うても腹も立たなければ、不足にも思わんと言う様な楽も頂きたい。
 同時に神様を信じて疑わないと言う所から、頂けれる楽も頂きたい。同時に私どもははぁ極楽ち言うようなおかげもやっぱり頂きたい。それにはどうしても親悦、心の喜びが正常にして、安穏であるという事の為にはです。私どもが一コマ抜ける事もありますけれども、そこ辺の所を補いをつけていくというか、本当にリズムに乗るまでは、私はいうならば、足踏み状態をしながらでもですね。リズムに乗ったと感じられる。
 是で元取ったと言う所まで、信心の調子というものを合わせていかなければ、結局最高の極楽でしょうね、これが。和楽、神楽、快楽のおかげというのですから。そういうおかげをこれはもう夢じゃなくて事実頂けれるんですからね。昨日合楽会で、野口つぁんが発表しておられましたけれども。もう本当に信心の有難さが、愈々有難く分からせて頂く。けれども、ふっともう私はいつ死んだっちゃ有難い、極楽と思うけれど。ふっと思う事は、ほんに私が主人より先に死んだなら。
 主人がどうなるだろうかと言った様な事を、ふっと思いよったっち言う。所がこの頃は主人が熱心に、ああして信心にお参りしてくれるようになってもう俺は、このまま一生続けられると言う様に、信心が有難うなってこられたので、もう愈々安心と言う様な意味の事を話しておられましたけれどね。そういう例えばお互いには色々な、あれも是もばってん是だけは、もういっちょ頂いとかんならんと言う様な事があります。足ろうていないわけですまだね。だからその足ろう所のおかげを頂くためにも。
 信心にいわば間の伸びた様な信心をね、間はなからなければいけません。けれども間が伸びたら調子から外れてしまいます。そう言う所に心がけさせて貰う。皆さんの場合なんかは。その辺の所の体得というものが、私の場合なんかはそこが、ある意味で素晴らしいようですね。ですからそう言う所も皆さんの体得、もう合楽で言うならば、皆さんが体得なさらなきゃ他の方たちは分からんでも、あなた方の場合だけはその辺の所の信心の新味というものが味あわれるおかげ頂かにゃいけんと思うですね。
   どうぞ。